私は糖尿病です
岐阜県 ペンネーム:新井遊さん
「私は生まれながらの糖尿病です」
そんな書き出しで始まる作文を女子生徒が書き、私に提出したことがある。私は書き出しで迷い、最後まで読み終えて迷った。「果たしてこの作文をクラスに、学年に発表していいのだろうか」と。
作文を書いた目的は、「青年の主張大会」に参加する学校代表を二人、選考するためだった。学年にクラスは六つあり、その中で代表者を選ぶことになる。教師側が「この生徒にしよう」と決め、作文を記述させても良かったが、それでは他の生徒の「書く力」が伸びない問題があった。
「学年全員に書かせて、その中からクラス代表を一人ずつ選び、最終選考は学年集会でみんなで投票するってのはどうかな」私の提案はそのまま採用され、具体的な進め方や選考方法についても私に一任されることとなった。前述の作文はその過程で登場した作品だった。
「私は生まれながらの糖尿病です」で始まる作文は、彼女が誕生してから十四歳まで、どんな差別をされてきたのか、友達にどう助けてもらったのか等が記述されていた。糖尿病とわかり、落ち込んだ事実。毎日打つインスリン注射の煩わしさとそれによって差別をされた経験。そんな彼女を助け、かくまってくれた友達。
そして、作文の結論にはこうあった。
「私は糖尿病を背負って、これからも生きていきます。いままで私を助けてくれた友達のためにも」
それは彼女の十四年間の記録であり、生き様そのものだった。私も涙なしには読めなかった。特に糖尿病が原因で「トウニョウ、トウニョウ」とからかわれ、それに毎日涙するところは、何回読み返しても辛い場面だった。「子どもは純粋な反面、残酷な生き物である」という言葉を、彼女の作文によって改めて知らされた格好だった。
作文の内容は感動的だった。悩んだとき、苦しんだときの心情が克明に記されるとともに、落ち込んだ体験から最後には「私は糖尿病を背負って、これからも生きていきます」と前向きに宣言している。
事実私だけでなく、国語教師全員がこの作文に涙した。特に糖尿病を患ってもそれを背負って生きようとする姿勢は、ぜひ他の生徒にも知ってもらいたいところだった。
私は彼女と担任を交えて話し合った。この作文が「青年の主張大会」の代表になって良いかどうかを。糖尿病に対する偏見は少なくなったにしても、未だにあれこれ言う生徒はいる。そのテーマの作文を発表すれば、彼女が糖尿病である事実が広く知られてしまう。そんな心配をしたからだったが、彼女ははっきりと言った。
「構いません。決して恥ずかしいことではありませんから」
最終的に彼女の作文はクラス代表候補になったが、惜しくも代表にならなかった。だが代表決定の段階で、彼女は自分のクラスメイトを前に、その作文を発表した。その様子はみていても堂々としたものだった。「構いません。決して恥ずかしいことではありませんから」と主張した彼女の姿勢が、そのまま伝わってくる発表だった。
糖尿病に対する偏見はたしかに現代でもある。相手が子どもなら「トウニョウ、トウニョウ」と馬鹿にする可能性だってある。大人でもそれを良しとしない。陰でいろいろうわさを立てる。
しかし、それを恐れていては何も進展しない。患者が事実から逃げれば逃げるほど、肩身は狭くなる。結果「トウニョウ」と後ろ指を指されて生きることになる。それではいつまでたっても進歩はない。
大切なことは患者自身がそれを「恥ずかしいこと」とは思わず、胸を張って生きることだ。「私は生まれながらの糖尿病です」と、堂々と口にすることだ。そう言うことで心がすっきりするし、「糖尿病」を恥ずかしいと思う気持ちもなくなる。
考えてみれば、だれもが糖尿病になりたくてなったわけではない。生まれながらにそうなった人もいれば、成長してからなった人もいる。けれど、だれ一人としてなりたくてなった人はいない。
その事実を知り、わかってくれる人は必ず世の中にいるはずだ。思いやりのない人はともかく、糖尿病患者に同情し、「何かできることはないですか」と言ってくれる人はきっといる。まずは患者が堂々と事実を言い、こうしたわかってくれる人を増やすことが大切なのだ。
彼女の作文は私にそんな大切なことを教えてくれた。あとはその事実をもっとたくさんの人に知ってもらうことだ。そうすれば糖尿病患者に対する偏見は必ず消滅する。そう信じて私はこの作文を書いたつもりである。
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